村の相撲が大盛況
Vol.72 1986.3月号掲載 
 相撲が国技だと言われるようになったのは1909年(明治42年)のことである。国技と言うくらいだから、日本独特の競技だろうと思っていたが、実際には古くから世界各国で行われていたようだ。5000年前の古代バビロニアの遺跡やエジプトの壁画、インドの「釈迦一代記」などにすでに登場しているという。

 また、「角力」「角抵」「相撲」の文字は中国でインドの経典を漢訳したものが、奈良時代に日本に伝わり使われるようになった。日本でも古くから、今の祭りのように五穀豊穣の吉凶を占い、豊穣を祈願する、神事相撲が広く行われていたという。

 天平年間(724年〜748年)に貴族らが、全国から相撲の強い農民を集め、宮廷で相撲を催すようになり、平安時代には宮中儀式の相撲節会という独立した行事となった。これに刺激され、各地の大きな神社に伝承されていた神事相撲もますます盛んになり、山間部などの鎮守社の祭りにも、野相撲や草相撲、土地相撲などが行われた。しかし、武士が政権を握った時からその性格が変化し、精神鍛錬と組討ちの練習の目的のために行われ、江戸時代には、寄付金集めの勧進相撲となり、明治初期には、文明開化に逆行する存在だとの理由から排斥されたこともあった。

 この写真(菊川町・川中氏所蔵)は1923年(大正12年)頃のもの。掛川地域で一番華やかに相撲大会が行われたのが小笠山近辺だった。今は大東町入山瀬となったが、昔は土方村の入山瀬という地区の鎮守社の祭りで盛大に行われた。

 入山瀬では、青年になると必ず相撲を取った。この祭りには小笠郡下や掛川はもちろん、袋井や浜北からも相撲を取りに出かけてきたという。見物人も黒山の人だかりという感じで、当時にしてみれば一大イベントだったのだろう。スポンサーは大きな商店や相撲好きの人達だったそうだ。

 出場する人達のほとんどが練習を十分しないでいきなり対戦するから、技よりも力のある人が勝ったという。そして、上位には個々人に白い布や赤い布に優勝とだけ書いてある優勝旗が送られた。袋井の可睡斉では、このような鎮守社で優勝した人や、各地方の強い人が集まり、本場所的に相撲大会を開いたという。掛川からも萩田印舗の先代が「萩の里」の四股名で出場し、後に掛川の相撲大会の行司として活躍した。