その31 かっこいい、すごいの言葉
きまた たつしろう
 先日の台風十八号はひどい大水だった。ぼくの妹が街の中に住んでいるので心配になって出かけた。夜ちかくになってもまだ水が出ている。川があふれている。新町の水もすごいものであった。

 今日は、郊外の山に囲まれた日坂や東山口までお見舞いに行ってきたのだが、その被害の大きさにびっくりしてしまった。水はこわい。さいわいにも、ぼくの学校や子どもたちの家は、それらの水の被害にあった地域にくらべれば被害はごく小さかった。

 台風の来た次の日に、教室で子どもたちの被害の様子を調べたり、体験談を聞いたあと、昨夜の新町での体験談を話したり、聞いた範囲での日坂や東山口の学区の様子を知らせた。子どもたちは「わぁ、すごい」の連発である。子どもたちの目はうれしそうに、めずらしそうにかがやいている。ぼくの話し方にも多いに問題があるのだろうが、最後まで、「こわい」の言葉や、自分たちの住んでいる所でそんな水害がおそってきたら「困る」というような雰囲気ではなかった。

 「たきだし」の話をしたら、「ぼくもひなんしたかったやぁ」と言われたのには困ってしまった。そんなこんなで、子どもたちに考えてもらいたかったことは伝わらなかったようだ。

 田んぼが次々と宅地になったり、単一な畑になったりするのは田んぼが大雨のときの遊水池の代わりをしていたということ、それがなくなるということなのだから、水の出る原因になる…。緑がいっぱいあった山の斜面がブルドーザーでけずられたあと茶畑になったり、山の木が切られてしまうのも、水害を防ぐということからみれば考えてみなければならない…。というような、ぼくから投げかけた学習教材も、今回はさっぱり考えてもらえなかったようである。

 今回のような台風の大雨であとしまつが大変でなくとも、雨降りの日は、ほとんどすべての子どもがいやがる。しかし、それはただ単に、外に遊びに行けないからという簡単な理由だけなのである。雨降りなどに仕事にさしつかえのある土木会社に通っているお父さんの子どもくらいには、もっと深く考えさせたいが、なかなかままならない。
 子どもたちは、受け持ちの先生が、今回のようないつもとちがう大雨で、腰までつかるような水の中をザブザブとかちわたっていくのを見て、「わぁ、かっこいい」と言う。

 そんな感覚や感想だけでは困るので、くみ取りの家のはいせつぶつや、仕事で飼っているブタや牛などの動物のはいせつぶつや、川そこににたまっていたいろいろなものが、その中にまじってきているというこの水の汚さを話せば、「先生、くっさあい」と鼻をつまむまねをしてひやかす。そして教室中が大笑いになる。ぼくはあわてて、そんな水につかってしまった家のあとさきの苦労や、大変さなどをつけたしてさらに話す
と、「ぼくらん家でなくってよかったやぁ」と、また最初に話がもどってしまう。こちらの話していることが通じないので、だんだん声があらぶってくる。子どもたちは、本能的に、先生のいらいらだけはわかる。
子どもたちはなぜかわからないまま、教室が静かになる。

 ぼくの教室では、こんなふうに心の通じ合わない時が、しばしばおこる。そういえば、常々、交通事故のおそろしさなども言って聞かせているが、子どもたちは、心の底までおそろしく思っていないふしがある。交通事故の状態を見せる人形をのせたダミーの実験なんかも、まいあがってたたきつけられる人形を見て、我が身とおきかえて青い顔をしている子と、「わあっ」と言って、目を輝かせている子とがいる。宙に舞うすがたが「かっこいい」と思っているのだろうか。
どうしてこういうちがいがでてくるのか、考えてみたい。